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浅草橋周辺の26史跡説明
この史跡説明は台東区設置の現地説明板や同区発行の諸本、民間発行の史跡関係諸本、又、江戸地誌研究家の話を参考にしてまとめたものである。
(4)両国橋と両国広小路跡
両国とは武蔵の国と下総(しもうさ)の国のことである。両国橋とはそのニつの国を結ぶ橋として、明暦の大火(明暦3年=1657)の直後、今より90m下流に架けられた。隅田川では千住大橋に次ぐ古い橋である。明暦の大火は江戸の町の大半を焼き尽くし、10万人の焼死者を出した大火として有名だが、以後、幕府は都市計画や防火策を講じたのである。延焼防止用の火除地として設けたいわゆる広小路がそれで、両国橋両側のたもとに両国広小路を設けた。この広場は大火が生じたときこそお救い小屋を建てて被災者の救済場にしたが、普段はよしず張りの水茶屋や小間物を売る店、芝居小屋や見世物小屋等娯楽施設が軒を連ね大勢の人で賑わう盛り場であった。(西詰、中央区側の)両国広小路は上野広小路や浅草広小路等の中でも最たるものであった。その場所も両国橋が前述のように今より90m下流に架かっていたから中心は現在の中央区東日本橋2丁目あたりであった。今、両国橋から広い靖国通りが通っていてここに碑があるから、この辺りがかつての両国広小路の中心のように思われるが、実際の広小路の中心はもっと南だったのである。

【両国の花火】 今、両国の花火というと言問橋辺で上げられるが江戸時代はまさにこの両国橋中心にあげられていた。これは江戸も中期、八代将軍吉宗時代、飢饉による餓死者の慰霊と悪疫退散のため水神を祀り花火を余興にあげたのが始まりといわれる。盛んな頃は横山町の鍵屋と両国広小路の玉屋が請負って、鍵屋は両国橋の下流を、玉屋は上流を受け持って大いに競い合った。天保期(1830〜1843)玉屋は出火がもとで廃業し、鍵屋のみ独占したという。

この両国橋も江戸期、度々流失、焼失、破損しその都度架けかえられた。明治27年、現在の位置に鉄橋が架けられ、今の橋は昭和7年に竣工したものである。

(ちなみに今築地にある西本願寺は元和年間(1615〜1623)から明暦の大火(1657)までこの辺りにあった。明暦の大火後の都市計画で江戸市中、多くの寺社は移転させられている。)