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浅草橋周辺の26史跡説明
この史跡説明は台東区設置の現地説明板や同区発行の諸本、民間発行の史跡関係諸本、又、江戸地誌研究家の話を参考にしてまとめたものである。
(13)浅草御蔵跡
浅草橋駅東口前横断歩道を渡り、蔵前橋方面へ向かう一帯は現在ビルや商店が建ち並び、その先には柳橋病院、浅草中学(旧蔵前中学)、蔵前工業高校、蔵前警察署、NTT、蔵前橋,下水道局、蔵前変電所を経て厩橋へと続くが、この一帯が江戸幕府の米蔵だった所である。

幕府天領から船で運ばれてくる年貢米を貯蔵する一大倉庫群は元和6年(1620)、隅田河岸を整地して造られ、次第に規模が大きくなって、広さは約12万u余り(4万坪)。明暦の大火(1657)後、隅田川に沿って櫛の歯のように一番〜八番の堀を設け、弘化年間(1844〜1848)には68棟356戸前程の蔵が建ち、凡そ50万石(約62万5千俵)収納出来たという。番所や役所もあり諸係り役人、荷揚げ人夫等が大勢働いていた。奥州街道(今の江戸通り)沿いは石垣や土手で囲まれ、下・中・上と三つの御門があって警備は厳重だった。収納された米は主に幕臣達の給料米として、又非常用備蓄米として用いられた。
浅草橋駅並びの人形、包装用品、おもちゃ、手芸用品、造花、花火等の問屋街は、御蔵前通りといわれ、切絵図にみる天王町・御蔵前片町・森田町・元旅篭町にあたる。ここには大きな米問屋や、いわゆる札差(幕臣等のための米受取代理業者、金貸し業者)、両替商等の大商人が居を構え、吉原通いで大通(だいつう)と呼ばれた富商が軒を並べていた。

この掘割にはこぼれた米を餌にしたシジミがよく育ち、特に「御蔵しじみ」といって通常の5倍の値がしたという。
掘割は大正初期まであったが、その後の護岸工事で次第になくなっていった。

ちなみに蔵前橋は昭和2年、初めて架けられた。場所は三番堀と四番堀の間にあたる。
又、厩橋も江戸期には無く、厩の渡しだった。明治7年初めて架けられ、今の橋は昭和4年のもの。