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史跡散歩
浅草橋周辺の史跡26ヶ所を歩いてみよう!
江戸の切絵図【東都浅草絵図】と【日本橋内神田両国浜町明細絵図】を持って歩こう。
※地図上の数字をクリックすると、各所の説明ページが表示されます。
※地図上↑の場所と、文中↓の史跡(1〜26)各所の説明がこのページの下にあります。
  史跡説明TOP
JR浅草橋東口前の江戸通りは江戸時代の五街道の一つ、(広義の意味での)奥州街道(1)である。

JR浅草橋東口をおりて江戸通りを右へ、神田川に架かる浅草橋を出発点にしよう。そこには浅草見附跡の石碑と浅草御門の説明板(2)がある。

次は神田川を約200m下った隅田川との合流点直前に柳橋(3)がある。柳橋の欄干にとりつけてある簪に注目!花街の面影を懐く人もいるだろう。又、橋のたもとにはその名残の料亭「亀清楼」がある。創業安政元年(1854)。

柳橋を渡って中央区側に足をのばしてみよう。そこには両国広小路跡(4)の石碑がある。但し、江戸期の両国橋は今より90m下流に架かっていたから、両国広小路の中心はもう少し南だった。

柳橋に戻って篠塚稲荷(5)へ。ここは10坪ほどの小さな稲荷だが非常に古い社だ。
《ちなみに切絵図では隣に第六天があるが、ここは現在後述の榊神社内に合祀されている》

JR浅草橋を越して通り一本入った所に銀杏岡八幡神社(6)がある。ここも中世からある古い社。切絵図では銀杏八幡とある。

江戸通りに戻り蔵前の方に向かうと須賀神社(7) 須賀神社の紹介2がある。切絵図には天王社とある。

その裏手、玩具会館の所に閻魔堂跡(8)の小さな石碑がある。この石碑、玩具会館の生け垣に隠れていて見逃しやすいから注意。切絵図の華徳院がこれである。

もう一度江戸通りに戻ると須賀橋交番がある。交番前の江戸通りにはかつて鳥越川が横切っていてそこに鳥越橋(天王橋ともいった)(9)が架かっていた。

この交差点を隅田川の方へ100m入った所に現在は榊神社があるが、江戸期にはなかった。。ここには浅草文庫跡(10)蔵前工業学園跡(11)の二つの大きな石碑がある。共に明治になってからの史跡である。浅草文庫が実際にあったのはここではなく、もう少し柳橋寄りである。

榊神社の横道を蔵前橋通りまで行って右折し、蔵前橋に出ると橋際に首尾の松(12)の石碑がある。但し、江戸期首尾の松があったのはもう少し下流。

通りの反対側には浅草御蔵跡の石碑(13)がある。約4万坪あったという浅草御蔵の大きさを実感するために蔵前橋の中程まで行き蔵前方向を眺める。左側は久月の看板の少し右辺りから右側は厩橋近くまでが幕府の浅草御蔵のあった場所である。

江戸通りへ戻り、蔵前1丁目交差点浅草橋寄りの角に浅草天文台跡(14)の説明板がある。

蔵前橋通りを少し行ったT字路は現在かっぱ橋道具街方面へ向かう新堀通りの基点であるが、江戸期ここは浅草方面から新堀川(15)が流れていて鳥越川と合流していた。

江戸通りを浅草橋方面へ150m程行き、先ほどの須賀橋交差点を右に入った道はかつて鳥越川であった。この川は三味線堀と隅田川間を流れていた。途中稲荷橋(16)や甚内橋が架かっていた。甚内橋跡には小さな石碑(17)がある。その近くには甚内神社(18)がある。

蔵前橋通りへ出て向かい側にとんど焼きで有名な鳥越神社(19)がある。

蔵前橋通りを150mくらい行った鳥越一丁目の交差点を左へ又約150m行ったところに蓬莱園の大銀杏の木(20)がある。この辺は平戸藩主松浦家の上屋敷でそこに蓬莱園という名園があったのである。蓬莱園の石碑(21)がその銀杏の反対側、旧柳北小学校の横にある。そこまでは約200m以上歩くからそれだけ大きな庭だったことがわかる。

旧柳北小学校の道を清洲橋通りの方へ行ったところに医学館跡(22)の説明板がある。

清洲橋通りを左へ曲がり、JR高架線の方へ歩く。JR高架線ガードのところに昔の町名、飼鳥町(23)の文字を見つける事が出来る。餌鳥屋敷(えとりやしき)があった名残である。
《切絵図の飼鳥屋敷は間違いで餌鳥屋敷が正しい。切絵図にはこうした間違いが案外多い》

その先の橋が美倉橋(24)。切絵図の新シ橋である。

美倉橋を渡って千代田区と中央区側へ。神田川に沿ったこの通りが柳原通り(25)である。江戸期はここに土手が築かれ、柳が植えられていたので、柳原土手とか、柳原堤とも言われていた。

神田川に沿って400mくらい左へ歩くと浅草橋へ。そこに郡代屋敷(26)の説明板がある。浅草橋を渡ると出発点へ戻る。約4Kmの道のり。

ご苦労さまでした!
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浅草橋周辺の26史跡説明
この史跡説明は台東区設置の現地説明板や同区発行の諸本、民間発行の史跡関係諸本、
又、江戸地誌研究家の話を参考にしてまとめたものである。
(1) 奥州街道(千住街道)
現在の江戸通りである。奥州街道は厳密には千住からをいうので、正式にいうと千住街道であるが、奥州、日光、水戸へ向かう幹線道路であったから広義の意味では奥州街道という。奥州の諸大名も参勤交代の折りはこの道を通った。又、江戸の古刹で江戸庶民が好んだ浅草寺(浅草観音)や新吉原もこの道筋にあったから江戸の人々はこの道を通って浅草へと向かったのである。
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(2) 浅草橋・浅草御門跡・浅草見附跡
江戸幕府開府に伴い江戸の町づくりが進められたが、江戸城防衛のため重要な拠点に見附門を設置したのもその一つである。神田川も次第に開削され、この浅草の地は日本橋から奥州・日光・水戸へ、又、江戸の古刹浅草寺(浅草観音)へ向かう重要な道筋にあたっていたので、幕府は寛永13年(1636)神田川の南岸、今の中央区側に浅草御門を設け、警護の役人も置いて見附門としたのである。(四ツ谷、市ヶ谷、赤坂御門等と同様江戸城三十六見附の一つである。)それゆえ浅草橋を含めこの辺りを浅草見附といった。現代の感覚だと、いわゆる'上野浅草'とは離れた場所であるのになぜ浅草がつくのかと不思議に思うが、江戸時代の浅草は現代より広範囲で、当時はこの辺も浅草の内だったのである。

【浅草御門悲話】 明暦の大火(明暦3年=1657)の折、小伝馬町牢奉行石出帯刀(たてわき)は一時囚人達を釈放した。が、門の番人は脱走囚と間違え門を締め切った。このため一般市民も避難路を絶たれ、ここだけで2万人の溺死者、焼死者をだしたという。

この浅草橋も江戸から明治を通し、何度も架け替えられ、現在の橋は昭和4年のものである。
又浅草御門も江戸幕府終焉に伴い明治初期に廃止された。
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(3)柳橋
神田川が隅田川と合流する直前に架かる橋である。江戸期もここに架かっていた。
柳橋というと橋名より花街、柳橋芸者を誰しも連想するが、それは明治以降の話である。
橋そのものは元禄11年(1698)架けられた。神田川が隅田川に合流する所で、「川口出口の橋」と呼ばれていた。江戸期は浅草橋と柳橋との間の河岸が吉原通いの猪牙舟(ちょきぶね)や様様な舟遊びの船、それらを利用.する人々と船宿や料理屋で大いに賑わった。花街化したのは辰巳芸者で有名な深川花街が寛政・天保の改革で弾圧を受け、芸者達が次第にこちらへ移ってきてからである。かつては文人や画家に愛された所だったが、今その花街の面影は全くない。が、橋のたもとにある「亀清楼」はその名残の料亭である。
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↑橋の欄干にかんざしの彫刻がある
(4)両国橋と両国広小路跡
両国とは武蔵の国と下総(しもうさ)の国のことである。両国橋とはそのニつの国を結ぶ橋として、明暦の大火(明暦3年=1657)の直後、今より90m下流に架けられた。隅田川では千住大橋に次ぐ古い橋である。明暦の大火は江戸の町の大半を焼き尽くし、10万人の焼死者を出した大火として有名だが、以後、幕府は都市計画や防火策を講じたのである。延焼防止用の火除地として設けたいわゆる広小路がそれで、両国橋両側のたもとに両国広小路を設けた。この広場は大火が生じたときこそお救い小屋を建てて被災者の救済場にしたが、普段はよしず張りの水茶屋や小間物を売る店、芝居小屋や見世物小屋等娯楽施設が軒を連ね大勢の人で賑わう盛り場であった。(西詰、中央区側の)両国広小路は上野広小路や浅草広小路等の中でも最たるものであった。その場所も両国橋が前述のように今より90m下流に架かっていたから中心は現在の中央区東日本橋2丁目あたりであった。今、両国橋から広い靖国通りが通っていてここに碑があるから、この辺りがかつての両国広小路の中心のように思われるが、実際の広小路の中心はもっと南だったのである。

【両国の花火】 今、両国の花火というと言問橋辺で上げられるが江戸時代はまさにこの両国橋中心にあげられていた。これは江戸も中期、八代将軍吉宗時代、飢饉による餓死者の慰霊と悪疫退散のため水神を祀り花火を余興にあげたのが始まりといわれる。盛んな頃は横山町の鍵屋と両国広小路の玉屋が請負って、鍵屋は両国橋の下流を、玉屋は上流を受け持って大いに競い合った。天保期(1830〜1843)玉屋は出火がもとで廃業し、鍵屋のみ独占したという。

この両国橋も江戸期、度々流失、焼失、破損しその都度架けかえられた。明治27年、現在の位置に鉄橋が架けられ、今の橋は昭和7年に竣工したものである。

(ちなみに今築地にある西本願寺は元和年間(1615〜1623)から明暦の大火(1657)までこの辺りにあった。明暦の大火後の都市計画で江戸市中、多くの寺社は移転させられている。)
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(5)篠塚稲荷
 柳橋から浅草橋駅へ戻る途中、柳橋2丁目5にある。江戸切絵図と同じ場所である。
新田の家臣、篠塚伊賀守がこの社を信仰し、晩年入道して社の側に庵室を造って住んだと江戸名所図絵にある。
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6)銀杏岡八幡神社(銀杏八幡)
社伝によれば、中世この辺は小高い丘で隅田川が間近に眺められた。11世紀初め源頼義、義家が奥州下向の折、河上より銀杏の木が流れてきたので地にさして勝利を祈願した。結果勝利をおさめたので再度この地を訪ねたら銀杏の枝葉が栄えていたので八幡を勧請したという古い社である。元和4年(1618)この地を福井藩の松平氏が拝領し屋敷を構え、邸内社として崇敬していた。享和10年(1725)屋敷は公収され福井町という町屋となった。銀杏は文化3年(1806)の江戸大火で焼失した。従って現在の銀杏は後世のものである。
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(7)須賀神社(牛頭天王社)
江戸切絵図には天王社とある。牛頭天王社とか蔵前天王社とか祇園社ともいわれていた。ここは又、団子天王様として親しまれていた。これは、疫病にかかった娘を親が心配し、天王様に願掛けしたところ全快したのでお礼に団子をお供えしたという言い伝えによるものである。
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(8)閻魔堂跡
江戸期この辺りは閻魔堂を中心に牛頭天王社や十王堂があった。閻魔王は運慶の作で5m弱あった。1月と7月の縁日は参詣人が群集した。明治大正期も境内から鳥越橋(天王橋ともいった。今の須賀橋交番前)辺まで露天商が並び大いに賑わった。関東大震災でお堂も焼失した。
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(9)鳥越川と鳥越橋跡(江戸期は天王橋、明治期は須賀橋ともいった)
上野の不忍池から今の上野4丁目を通り、今の小島1丁目5〜6にあった三味線堀に流れていた忍川が、今度は鳥越川となって浅草橋5丁目〜3丁目を通って隅田川に流れていた。
鳥越川は農産物や建築資材、おわい等生活物資の運搬に利用され、三味線堀はそれら運搬船の船溜りだった。
御蔵前通り(今の江戸通り)とぶつかった所には鳥越橋(天王橋)が架かっていた。この橋は切絵図にあるようにニ本架かっていた。一本は架け替え時等のための予備の橋だったという。丁度今の須賀橋交番前である。鳥越川は大正の大震災後次第に埋め立てられ今は暗渠(あんきょ)になっている。
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(10)浅草文庫跡
大きく立派な碑は榊神社内にあるが、実際にあったのは御蔵八番堀跡で、もう少し柳橋方面である。
明治政府がつくった今でいう図書館。明治7年(1874)湯島聖堂から図書を移し、浅草文庫と名づけて広く一般にも公開した。和漢洋蔵書約14万冊。明治15年、国立国会図書館上野支部に移管した。現在、国立国会図書館、国立公文書館内内閣文庫、東京国立博物館等に所蔵されている貴重な書籍である。
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(11)蔵前工業学園跡
榊神社内にはもう一つ蔵前工業学園跡の碑もある。
明治政府が新しい日本を築くには工業技術が必要と明治14年(1881)、この場所から隅田川にかけて東京職工学校をつくった。後、蔵前工業学園の名で知られここから多くの工業先駆者が輩出、日本の近代化に貢献した。現在の東京工業大学の前身にあたる。
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(12)首尾の松跡
御蔵四番堀と五番堀の間にあった名松。現在の碑と松よりもう少し下流にあった。名前の由来ははっきりしないが、吉原帰りの結果(首尾)をこの辺で語り合ったともいわれ、隅田川を行き来する船の格好の目印だったようだ。初代は安永年間(1772〜1780)といわれる。明治の頃は既によくわからなくなっていたという。現在のは7代目といわれるがはっきりしない。 
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(13)浅草御蔵跡
浅草橋駅東口前横断歩道を渡り、蔵前橋方面へ向かう一帯は現在ビルや商店が建ち並び、その先には柳橋病院、浅草中学(旧蔵前中学)、蔵前工業高校、蔵前警察署、NTT、蔵前橋,下水道局、蔵前変電所を経て厩橋へと続くが、この一帯が江戸幕府の米蔵だった所である。

幕府天領から船で運ばれてくる年貢米を貯蔵する一大倉庫群は元和6年(1620)、隅田河岸を整地して造られ、次第に規模が大きくなって、広さは約12万u余り(4万坪)。明暦の大火(1657)後、隅田川に沿って櫛の歯のように一番〜八番の堀を設け、弘化年間(1844〜1848)には68棟356戸前程の蔵が建ち、凡そ50万石(約62万5千俵)収納出来たという。番所や役所もあり諸係り役人、荷揚げ人夫等が大勢働いていた。奥州街道(今の江戸通り)沿いは石垣や土手で囲まれ、下・中・上と三つの御門があって警備は厳重だった。収納された米は主に幕臣達の給料米として、又非常用備蓄米として用いられた。
浅草橋駅並びの人形、包装用品、おもちゃ、手芸用品、造花、花火等の問屋街は、御蔵前通りといわれ、切絵図にみる天王町・御蔵前片町・森田町・元旅篭町にあたる。ここには大きな米問屋や、いわゆる札差(幕臣等のための米受取代理業者、金貸し業者)、両替商等の大商人が居を構え、吉原通いで大通(だいつう)と呼ばれた富商が軒を並べていた。

この掘割にはこぼれた米を餌にしたシジミがよく育ち、特に「御蔵しじみ」といって通常の5倍の値がしたという。
掘割は大正初期まであったが、その後の護岸工事で次第になくなっていった。

ちなみに蔵前橋は昭和2年、初めて架けられた。場所は三番堀と四番堀の間にあたる。
又、厩橋も江戸期には無く、厩の渡しだった。明治7年初めて架けられ、今の橋は昭和4年のもの。
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(14)浅草天文台跡
切絵図には天文屋敷とある。
正確な暦を作るには天文台が必要であった。そのため幕府は天明2年(1782)それまであった牛込から御蔵前片町の裏手に天文台を移し、天文、暦術、測量、地誌編纂、洋書翻訳を行う施設とした。高さ約9.3mの築山上に約5.5m四方の天文台が設けてあった。天文方の役人高橋至時が寛政の改暦に際し観測した場所であり、又、伊能忠敬が全国測量以前に深川の自宅から通った所でもある。北斎の「富獄百景」のうちの'鳥越の不ニ'にはこの浅草天文台が描かれている。天体の位置を測定する器具「渾天儀」が据えられている絵である。明治2年新政府により廃止された。
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(15)新堀川跡
現在の新堀通りには江戸期新堀川が流れていて、今の蔵前橋通りを横切り、鳥越川に合流していた。切絵図を見るとその流れは現在の道路と合致していて興味深い。(碑や説明板は特に無い)
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(16)稲荷橋跡
 甚内橋と同じく鳥越川に架かっていた橋。現在、加賀美・久米森稲荷がある所。(特に碑や説明板は無い)
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(17)甚内橋跡
鳥越川に架かっていた橋。近くに小出兵庫という人の屋敷があり、その邸内に甚内神社が祀てあったので橋の名にしたといわれる。小さな石碑なので見逃さぬよう要注意。
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(18)甚内稲荷
この辺りに小出兵庫という人の屋敷があり、その邸内に甚内神社が祀てあった。
甚内とは向坂(幸坂)甚内のことで、江戸初期の大悪人。オコリ(マラリヤ病)に罹り幕吏に捕らえられたがオコリに苦しむ者は我を念ぜよと言ったのでオコリ等、病気をなおす神様として信仰を集めた。
ちなみに日本三甚内とは、吉原の開祖庄司甚内、大泥棒の富沢甚内、そしてこの向坂甚内である。
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(19)鳥越神社
鳥越の古社として孝徳天皇白雉2年(651)創建。祭神は日本武尊。現在の社殿は昭和21年再建されたものである。1月8日のどんと焼きと、6月祭礼時の一千貫神輿はつとに有名。
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鳥越神社のホームページへ

(20)蓬莱園の大銀杏
肥前平戸藩松浦壱岐守の上屋敷の庭園蓬莱園にあった大銀杏。忍岡高校校庭の隅に残る。
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(21)蓬莱園跡
忍岡高校や柳北公園一帯は肥前平戸藩松浦壱岐守の上屋敷で、その中に蓬莱園という回遊式庭園の名園があった。庭園だけで2400坪あったという。寛永9年(1632)藩主松浦隆信がつくり、造園設計は小堀遠州といわれた。広い池には屋敷脇を流れる鳥越川から水を引いていた。大正12年の大震災でその殆どは壊れ埋め立てられた。
ちなみに9代藩主松浦静山(1760〜1841)は「甲子夜話」という膨大な随筆を著わし、又、剣の達人で剣についての書も多い。
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(22)医学館跡
明和2年(1765)幕府の奥医師多紀元孝が医師養成のため神田佐久間町につくった私塾「躋寿館(せいじゅかん)」からスタートしたもの。医師養成の専門学校である。幕府は医師養成の重要性から寛政3年(1791)これを官立とし「医学館」と改称。一般からも入学を許可し、全寮制とし、一般市民の施療も行った。文化3年(1806)の大火で焼失したが近くの佐竹右京太夫中屋敷内に再建し、明治維新まで幕府唯一の医学校として社会に貢献した。
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(23)餌鳥屋敷跡
鷹狩につかう鷹の餌(スズメ)を保管していた場所を餌鳥屋敷といった。鷹の餌を餌差方役人に代行して捕らえる餌鳥請負い人の拝領地で、享保12年(1727)町屋になった。屋敷内には5m×14mと5m×4.5mの2階建て鳥小屋があった。嘉永(1848)から万延(1860)にかけての記録によると年平均438,000羽のスズメがお鷹部屋に納入されている。(碑や説明板は特に無い)
《切絵図には飼鳥屋敷となっているが、正しくは餌鳥屋敷である。切絵図にはこうした誤りがけっこう多い》

総武線高架ガード名に、餌鳥町でなく何故か飼鳥町の名がみえる。ちなみにJRや私鉄のガードには江戸期、明治期の町名がついていて古地図歩き愛好者を喜ばせる。
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(24)新シ橋(現 美倉橋)
神田川に架かる今の美倉橋である。江戸期は新しくできたものにはよく新シとつけたので江戸市中に新シ橋と名のつく橋が沢山あった。又、高い橋にはよく高橋とつけたので江戸市中に高橋が沢山あった。
ちなみに隣の左衛門橋は明治になってからできたので切絵図には無い。江戸期、新シ橋の次が浅草橋だったのである。
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(25)柳原土手(柳原堤)跡・柳原通り
新シ橋(現 美倉橋)を渡った千代田区・中央区側の神田川沿いは柳原通りといわれ、筋違御門(今の秋葉原辺)から浅草御門近くまで土手が築かれていた。土手上には柳の木がずらりと植えられていた。昼間土手下には古着屋や古道具屋が軒を連ね人通りも多く賑わったていた。が、夜になると店をたたむので夜は寂しい通りになったという。今でもこの通りは衣料品関係の店や会社が多いのはその名残といえる。今もこの通りは柳原通りというが、柳の木は残念ながら左衛門橋から浅草橋辺にしか植えられていない。
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(26)関東郡代屋敷跡
 関東郡代とは、関東、東海地域にあった天領(幕府直轄地)の地方行政百般を司った役所のこと。明暦の大火(1657)後常盤橋御門内からここに移った。敷地は今の日本橋女学館周辺、馬喰町2丁目全域と広かった。
支配領域が広範な上、農政、租税関係から領民紛争、教育と仕事内容も広範に渡り、それを小数の官吏が担い激務だったという。家康入国以来主に伊奈氏が世襲した。
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