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| 『雑学クラブ』たより | |
| 浅草橋に80年以上住んでおられる、鈴木守氏の情報コーナー |
| 【雑学クラブ】とは・・・・・ 鈴木守氏が主催する雑学研究クラブ。月に1回第2土曜日、午後2時より 東上野区民館にて、毎回テーマを決めて、研究発表を行っています。 |
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| 鈴木守氏プロフィール 大正15年5月29日生 東京市浅草区猿屋町6番地出身(現在の町名は台東区浅草橋3丁目) この地に80年以上住まわれている、町の生き字引的な方。書道家・詩吟師匠 台東区浅草橋三丁目町会会長 台東区老人クラブ浅三笑和会会長 青硯書道会常任参与 雅号(基水) 詩吟神風流総元代範 雅号(神凌) 元トヨタ自動車研究所 技士 |
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| 鈴木守氏の作品 | ||
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| No.6 | 柳橋は、かつて東京の花柳界を代表した場所の一つでした。料亭で出される懐石料理と会席料理の違いについて、ご説明したいと思います。 | 2010年2月10日 |
| 懐石料理と会席料理とは、一体何か? 雑学の皆さんは博学な方が多いので、そんなの知ってる!とおっしゃられるので、先ずは知らないつもりでお聞き下さい。 いろりの所で見かけるメニューのコースに、懐石と会席の二つがあります。どちらも「かいせき」と発音するので、同じと思っている方もいるのではないでしょうか? では、どこが違うのか説明します。 @懐石料理とは、茶席の時出されるもので、空腹のまま濃いお茶を飲むと胃に悪いので、その前に食べる料理です。料理の内容もいたって質素なもので、一汁三菜を基本としています。懐石とは「ふところのいし」で、修行中の僧が空腹と寒さをしのぐため、温めた石を懐に入れていたことに由来したものです。 A会席料理は、仲間同士で会合したり、客を接待する時に、皆と打ち解けて酒を飲みながら食べる料理で、勿論品数も多いです。昔江戸の頃、商人達が食べたのが始まりで、決まったものはなく、板前の腕次第で、色々なものが季節によって出されていました。別名を宴会料理とも云われて、主食の茶漬やそば等が最後に出されていました。 皆さん、おわかりになりましたか?なんだ、そんなの知っていると思った方、博学ですね。 |
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| No.5 | 2月11日は建国記念日です。皆さん、日の丸の旗と国旗についてご存知ですか? | 2010年2月10日 |
| 日の丸の旗と国旗について 日の丸の旗は何時頃から?そして国旗として認められたのは? @明治新政府が制定した A薩摩藩主 島津斉彬(しまづ なりあきら)が、各藩と協議して制定した 実は、Aが正解です。 江戸末期の頃、各藩ごとに旗印を掲げていたので、渡来して来た外国船がとまどっていました。そこで、上記の如く、日の丸がよいと云うことになり、国の旗と制定されたのです。日の丸は、諸外国の国旗にひけをとらない美しさでありました。 ところで、明治新政府が成立して間もない頃、フランス政府が、日の丸を売ってほしいと云ってきました。当時の金で500万円、今の金に換算すると5億円位です。明治新政府は、極度の財政難にあえいでいたので、喉から手が出るほど欲しかった様でした。もし、売っていたら、フランス国旗が日の丸になっていたかもしれません。 では、一般国民の間に日の丸が掲揚される様になったのは、何時頃からでしょうか?明治5年(1872年)明治天皇が新橋−横浜間に開通した列車に乗られた時に、日の丸の国旗を掲揚して天皇をおむかえしました。明治天皇が非常に満足され、それ以来、日の丸を掲揚するようになったのです。 |
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| No.4 | 浅草橋から秋葉原へ行ったあたりには、かつて牧場があったことをご存知ですか?東京はかつて、酪農が盛んだったのです。 | 2010年2月10日 |
| 東京はかつて、酪農が盛んだった 雑学の皆さんは、きっとビックリしていたと思います。 現在の東京は、アスファルトジャングルにたとえられるだけで、緑の土面がありません。然し、明治、大正、昭和の初期までは、原っぱには青々と草が茂っており、空地が澤山ありました。 その東京はかつて、日本一の酪農王国だった時代がありました。そんなことあったのほんとう?と思っている方が多いと思います。 明治の始めの頃、東京に各国の大使館が誕生し、その為、外国人はどんどん増えてゆき、又、日本人でも食生活を欧米式に切替える知識人も激増しました。そして、彼等の胃袋を賄うため、牛乳、バター、チーズが欠かすことが出来ない為に、牧場が必要となり、麹町、九段、四谷等、都心部に牧場が作られたのです。1888年頃、東京には160の牧場があり、日本一の酪農王国であったのです。 ちなみに、現在三井病院(浅草橋5丁目の先、現在の神田和泉町)のあった所は、小暮牧場(女優、小暮みちよの実家)があり、私の兄たちは、牛を見に行こうと云って、子供達で遊びに行ったと話していました。ご存知の方いらっしゃいますか? |
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| No.3 | 江戸文化(下町文化)の紹介ということで“江戸花火”“江戸の見せ物”“ドースル連”“活動写真”についてのお話です。 | 2008年3月26日 |
| 江戸花火 万治2年(1659)大川に両国橋が架けられた年に、大和の篠原村から現れた人が横山町に店を出し「鍵屋」と号し代々弥兵衛を世襲した。 享保2年(1717)花火師 鍵屋弥兵衛が水神祭に“献上花火”を上げたことに始まる。 両国橋をはさんで川上側が玉屋、川下側が鍵屋と場所が定まっていた。 柳橋側で花火が上がると玉屋!!、浜町側で花火が上がると鍵屋!!、と見物人から声が上ったのである。 さて日本の花火は球形なので、空中で開いた時同心円になるのでどこから見ても丸く見えるが、外国の花火は筒形なので、一方向に吹き出して柳の様になりだらだらと落ちてゆく全く違った形になってしまうのである。 江戸見せ物 江戸時代 両国橋の浜町側(西側)は見世物小屋が立並んで大変にぎわっていたが、明治に入ってから浅草の方が盛んになって行った。 ナリモノ(鳴物)−猿芝居、軽業、手品等で音曲に合せて行った チンブツ(珍物)−イカサマ(ごまかすもの)、おおいたち、ロクロックビ オッピラキ(押開き)−開放的な見世物 ヌード、エログロ ドースル連 今で云うおっかけ連で義太夫と云えば大阪だが、明治20年代になると東京の寄席は娘義太夫が人気を呼んで最盛期を迎えた。 特に竹本綾之助という天才少女が男髷で出たことに端を発し、最盛期には熱狂的ファンが組織(グループ)を作りひいきの娘義大夫になるとさわりの所で、ドースル、ドースルと掛声をかけ大騒ぎをした。そしてドースル連となった。 メンバーは青年達で書生、若旦那、坊ちゃん、銀行員、店員、職工までいたとのこと。 活動写真 大正に入ると庶民の娯楽は映画に移った。日本に輸入されたのは明治20年以降で特にフランス映画「ジゴマ」が浅草金龍館で明治44年に公開されると大ヒットになった、怪盗ジゴマを追う探偵物で波乱万丈、スピードとトリックが受け大人気になったのである。次に現はれたのが尾上松之助の目玉の松っちゃんである!! |
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| No.2 | 折り紙つきの折紙とは? 浅草橋界隈には昔から文具関連会社が多くありました。そこで今回は文房具にちなんだ話題を紹介します |
2008年3月10日 |
| 雑学の諸君も折紙つきの優秀な方ばかりと云われるとその気になるでしょう。では一体折紙とは何か?まさか千羽鶴や、やっこさんを折った紙がついて来るとは思わないと思います。 実はこれは江戸時代、刀剣鑑定の権威だった本阿弥家(ほんあみけ)の出した鑑定書のことを言います。その当時、武士の魂である刀にはそれを作った職人(刀鍛冶)の銘が刻まれており名高い刀匠による日本刀は高値で取引されていました。 ところが何時の時代でも必ずニセ物が出回った為に本阿弥家が鑑定して真正(ほんもの)と認めた刀に鑑定書をつけました。その鑑定書が二つ折りの紙だったので、そこから真正のものを鑑定書つきという意味で折紙つきと呼ぶようになりました。 又絵画、セトモノなどにも同じような折紙が使われ、十分に信用できると定評のあるという意味で折紙つきと言葉が一般にも広まっていったのです。 同じ様な意味で極(きわ)めつきという言葉もあります。これは江戸時代錦絵など“当局の保証済み”という意味で丸に極の印を押したことに由来します。 |
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| No.1 | 鈴木氏の昭和18年当時の思い出 | 2008年2月29日 | ||
| 当時、台東区浅草橋3丁目にある育英小学校の横には、図のような店が並んでいました。しかし、それらは全て木造だった為、戦火から小学校を守る目的で、全て取り壊しになりました。その作業は住民総出で行ったとの事。鈴木氏も2階の柱にロープをくくりつけ、引っ張った記憶があるそうです。おかげで育英小学校は戦火から逃れることが出来ました。 | ||||
| 現在の写真 | ||||
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| 当時の街並み | ||||
![]() 約60mの長さの場所に、14軒建っていたわけですので、1軒平均4m ぐらいの店だったということになります。 |
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